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着物に観る戦争 24着物に観る戦争 26 国際連盟脱退 United Nations withdrawal
昭和 8 年 1933 年
端裂 モスリン Muslin cloth

今回は少し長くなります。
と言いますのは日本が戦争に向かう分岐点はいくつかありますが、日英同盟と国連脱退が大きな分岐点と捉えているからです。
できましたら小分けにしても最後まで読んでいただけたらと思います。
日本は満州事変で清王朝の溥儀を皇帝に据え満州国建国を世界に宣言します。
これに世界から非難が上がりますが、当時の大国が当たり前に植民地を持つ中でなぜ日本だけが非難されたのでしょう。
1919年(大正8年)、パリで開かれた講和会議で日本は、「人種差別撤廃案」を提案。
これは否決された一方、多くの植民地を持つイギリスとの間に禍根を残す結果となりました。
1917年(大正6年)の「ロシア革命」により社会主義国家・ソビエト社会主義共和国連邦が樹立したことなど、世界情勢は大きく変化します。
いわば共通の敵を失ったことで、イギリス国内では日英同盟の更新に反対する声も上がっていたのです。
これに付け込んだのがアメリカでした。
アメリカは1921年(大正10年)11月から1922年(大正11年)2月までの期間に、アメリカ、日本、イギリスをはじめとする主要9ヵ国を集め、軍縮のためのワシントン会議を開催。
戦艦・航空母艦等の保有を制限する「ワシントン海軍軍縮条約」、中国の主権や領土を尊重することなどを定めた「九ヵ国条約」、中国市場に後発ながら進出を狙っていたアメリカは日英の同盟にアメリカを含む条約に替えたかったため太平洋地域での現状維持などを定め、日本、アメリカ、イギリス、フランスの4ヵ国が調印した四ヵ国条約が締結され、日英同盟が更新されないことも決められたのです。
この四カ国j条約によってアメリカは中国大陸や太平洋地域で日本と敵対したとしても、日本とイギリスから挟み撃ちにされる懸念が払しょくされたのです。
この時イギリスは中国に有していた既得権益もありアメリカの動きに警戒しましたが、第1次世界大戦中からアメリカに莫大な借款を負っていて,金融面からも日英より米英関係の重要性が高まっていたわけです。
こういった点から日英同盟更新への反対論がイギリス内部に存在していました。
加えて日本政府の外交姿勢です。
日本の当時の内閣は立憲政友会の原敬内閣〜高橋是清内閣で,この政友会内閣は対英協調よりも対米協調路線を取っていました。
それは,第1次世界大戦によってイギリスの国際的地位が低下し,経済的にも軍事的にも急成長をとげたアメリカの発言力が大きくなっていたためです。
日英同盟の更新に反対する声も上がっていたのでが、それでもイギリスの主要閣僚や陸海軍大臣や参謀総長まですべて同盟継続派であり、満州事変では日本を支持していたチャーチルやリー海軍卿などは日英同盟反対は少数派でした。
原敬首相の信任によりワシントン会議の全権を務めた駐米大使の幣原喜重郎により、正式に日英同盟は更新されないこととなります。
イギリスよりもアメリカとの協調を優先させる外交姿勢をとったため,日本は四か国条約締結にともなう日英同盟廃棄を日本のほうが積極的に了承したのでした。
中国では蒋介石による関税自主権(関税を自由に決めれない)」と「治外法権(自国内で外国人が犯罪を犯しても、自国の法律で裁けない)」といった不平等な条約を撤廃しようとする『国権回収運動』が進められます。
イギリスの大物政治家ジョン・サイモンが満州に直接利害を持つ国々で委員会を作り話し合おうと提案しリットン調査団が発足し、リットン卿は満州や日本を訪れ調査した結果、「満州国の建国は認める。しかし、これは日本の傀儡国家ではなく、満州を国際管理下に置き、国際連盟から5人の理事を置く。
そのうち2人は日本人から選出しても良い」という提案をされます。
松岡は日本政府にこれを飲むように進言したのですが、斎藤実総理大臣からの返信は「連盟に事態を静観させ、このまま満州問題から手を退かせよ」という無理なものでした。
国連が対日勧告決議案を作成している最中、日本陸軍は閣議の決定と天皇の裁可を得て、北京にほど近い日本人と中国人との紛争が絶えない地域の掌握として「熱河作戦(ねっかさくせん)」を実行してしまいます。
当時の国際連盟の規約には「決議をしている最中に挑発的な軍事行動をとった場合、経済制裁を課される」とあり、陸軍に逆らうことなく経済制裁を避けるための連盟脱退という選択肢でもあったように思えます。
この判断は国や国民を思ってのことかと考えると疑問が残ります。
昭和 8 年 2 月 24 日 日本代表の主席全権、松岡洋介は自身では国連に残る意向を持っていましたが、日本を除く全ての参加国からの否認をうけ国際連盟脱退を決めます。
ジュネーブで脱退した後すぐに帰国せずイタリアでムッソリーニと会見したり、イギリスでは BBC で日本の立場を表明したり、ワシントンではルーズベルトと会見しながら帰国します。
国連での交渉に失敗し、失意の中で帰国した松岡を国民は海外に始めて日本独自の外交をなした国民的英雄として迎えます。
こうして日本は戦争を回避する最後の機会を逃してしまいました。
この日英同盟から国連脱退に至る流れはのちの戦争に至る大きな節目でした。
国連脱退は軍部に批判的だった日本の世論が国連脱退を初めて世界の中で日本が独自の主張をしたとして大きく軍部支持に傾き、後の戦争を招き、文化・政治・外交的にそれまでアメリカに親しんでいたのにそのアメリカ相手に開戦してしまう道筋の始まりとも言えることでした。
政治的にアメリカに近づいたことは正しかったのかもしれませんが、軍部が国の運営の全てを掌握し国際的にも孤立し、ドイツ・イタリアとしか同盟を結ぶ術を持たず、アメリカに開戦するという無謀を行いました。
その背景に国民の熱狂があったわけです。
着物は世相をそんまま写しますので、そうした誤った解釈の上の英雄がそのまま形となって残されています。
当時の国民の熱狂が伝わってくるようです。
ここでもう1枚の端裂を見ていただきます。


万国旗と共に壮大な建物と大広間が描かれています。
これは国連本部と会議場です。
MATSUOKA YOUSUKE
GENEVE
といった文字が見られます。
一緒に描かれているのは松岡が乗った船でしょう。
松岡は中国の利権を守りながら国連で世界の理解を得るようにという指示に、できないと言いながら赴きました。
松岡は10代でアメリカに渡ったアメリカを知る人間です。
ここには先に見ていただいた布の図案にみられる熱狂や、国連脱退という記号がありません。
この端裂はジュネーブの国際会議に赴くときの柄と思われます。
その後の日本を知った上でこれを見て、もう一枚の裂との違いを見るときに複雑な思いがよぎります。

Mr. Yosuke Matsuoka 松岡洋介氏
松岡洋介は明治 13 年山口県の廻船問屋に生まれます。
11 歳のとき家が倒産、13 歳で働きながら学ぶためにアメリカに渡ります。
しかし寄宿先で使用人のように扱われたり人種差別を体験したり苦労しながらも支援してくれる人もあってオレゴン大学を優秀な成績で卒業し日本に帰国、外務省に入省し外交官として中国、アメリカに勤務します。
国連脱退後は同じく国際的に孤立していたドイツ・イタリアと、ソ連に対抗するため昭和 12 年日独伊防共協定を結びます。
7 月には日中戦争が始まりアメリカは中国を支援し日米関係は悪化してゆきます。
昭和 14 年 ソ連と満州国国境をめぐりノハンモンで衝突していた日本を無視し独ソ不可侵条約が結ばれます。
日本は外交的に行き詰まり平沼総理は内閣を総辞職します。
続く近衛文麿の内閣組閣に当たって外務大臣として松岡が抜擢され、外交に関しては自分に一任することでこれを引き受けます。
昭和 15 年 ポーランド・オランダ・フランスと進撃を続けるドイツに、締結後にアメリカに対抗する為のソ連を含めた 4 カ国の同盟の思惑を持って、アメリカと敵対するリスクを背負って三国同盟に踏み切ります。
昭和 16 年 3 月 26 日ヒットラーを訪れソ連との仲介を迫り、4 月13 日スターリンと北樺太の権益と引き換えに日ソ不可侵条約を結びます。
しかしこの思惑は裏切られ、ドイツはソ連に侵攻し、アメリカに対抗する術を失ってしまいます。
アメリカに対し強硬な松岡が邪魔になった近衛内閣はこれを除くためいったん総辞職し、アメリカとの交渉を試みますがアメリカの要求は中国からの全面撤退と三国同盟からの脱退で、同盟を推進した松岡外相はこれを決裂し、戦いたくないアメリカとの戦争へと流れていったのでした。
松岡は日本がアメリカに開戦したときには「三国同盟は一生の不覚」と漏らしております。
1933 年、国連脱退のために訪米した際、不遇な青春時代に励ましてくれたベバリッジ夫人の墓をつくる為にオレゴンに赴いています。
アメリカには愛着のある人でもあったのです。
8 月 15 日の終戦直前の昭和 20 年 8 月 8 日には日ソ中立条約を無視してソ連は日本に宣戦布告します。
スターリン・ヒットラーという怪物相手に交渉をした人ですが、どちらからも裏切られ国際的な情報不足もあったのでしょうが、自分の失敗が逆に国内的に評価され英雄視されたりと、事ごとく思惑が外れてしまった人でした。